
見る 見える 見えない 見ない
文部科学省が行った2022年度の調査では、裸眼視力1.0未満の割合は、小学生で37.8%、中学生で61.2%、高校生では71.5%(!)にも上るのだそうです。かくいうわたし自身も例に漏れず、まったくぼやけのない景色を見たのは、おそらく中学時代が最後。ものの輪郭がゆるく溶け合う世界をデフォルトとして生きてきました。近視=動物としての生きる力が低いのだと悲観したり、魚はみんな近視だと聞き、何かしらの環境を見据えての進化なのだと納得しようとしたりもしましたが、最近になって近視というのは「医療機関を受診すべき疾患」なのだと知りました。ご存じでしたか?
使いたいものを速やかに見つけ出せない。掃除の完成度が低い。見えている前提で話をされて、何のことやらさっぱりという事態も起こります。目が悪いと困ることの方が多いけれど、完璧主義気味の性分に「見過ごす余裕」を与えてくれるメリットだけは認めてあげたいなと思います。
「この状況をなぜそんな楽観的に捉えられるのか?」「どうしてこのポイントに目を向けないのか?」。誰かと議論を交わすとき、視点を共有できないもどかしさを感じることがあります。つい「この分からずやめ!」と捨て台詞を吐きたくもなるけれど、相手にとっても同じことなんですよね。物事をどう見るかは、その人の「生き方」そのもの。それは視力同様にとても個人的なものなので、私にはこう見えます、あなたはどうですか? と擦り合わせて歩み寄っていくほかない。そのときの見え方が違ったからといって、見ている対象は同じものなのだから。
極度の近視であっても近視眼的にはならないように。
いろいろな角度から見渡す力を積み上げていきたいと強く思うこのごろです。
使いたいものを速やかに見つけ出せない。掃除の完成度が低い。見えている前提で話をされて、何のことやらさっぱりという事態も起こります。目が悪いと困ることの方が多いけれど、完璧主義気味の性分に「見過ごす余裕」を与えてくれるメリットだけは認めてあげたいなと思います。
「この状況をなぜそんな楽観的に捉えられるのか?」「どうしてこのポイントに目を向けないのか?」。誰かと議論を交わすとき、視点を共有できないもどかしさを感じることがあります。つい「この分からずやめ!」と捨て台詞を吐きたくもなるけれど、相手にとっても同じことなんですよね。物事をどう見るかは、その人の「生き方」そのもの。それは視力同様にとても個人的なものなので、私にはこう見えます、あなたはどうですか? と擦り合わせて歩み寄っていくほかない。そのときの見え方が違ったからといって、見ている対象は同じものなのだから。
極度の近視であっても近視眼的にはならないように。
いろいろな角度から見渡す力を積み上げていきたいと強く思うこのごろです。